プロローグ



会いたい人は、もうどこにも居ない。
誰も私を求めてなんていない。
父さんは今も姉さんを探している。
失くしてしまった幸福な家族の肖像の欠片を求めて。
その中に私も含まれているのかも知れないけれど、父が探しているのは欠片だ。

私を見ているわけではない。
私という欠片を通して、父の中にまだ残されている幸福な家族の肖像を求めているだけ。
父の傍に居て、初めて気付いた。

ロリーナ姉さんが、父の傍らでずっとその事実に耐えていた事。
アリスが薄々とそれを察していて、そして、父を快く思っていたこと。

私は知らなかった。

父と離れた場所で暮らしていたから。
寄宿学校を中退して、父の傍に居る事を選んで初めて気付いた。
あの頃は、実家に居るアリスとロリーナ姉さんを羨ましく思ったけれど、
今はもうそんな風には思えない。
寄宿学校に通い続けた方が良かった、とも思えない。


たとえ、私を見ていなかったとしても―――。



「いつまで目を背けているの?」


不意に声が聞こえた。
舌足らずなあどけない声が響く。
この空間にまだ、私以外に自由に動ける存在が居るとは思いもしなかった。


「私を見て」


「ほら」と、声に促される。
目元を覆っていた腕をずらして、気怠さを隠し切れないまま声の方に視線を向けた。
そして、私は思わず目を丸くしてそれを見つめた。


「・・・ウサギ?」


まるでどこかで読んだ本を思い出す。
でも、そこに居たのは白いウサギなどではなく、真っ黒なウサギだった。
丁寧に洋服まで身に纏って、二足歩行している。

小さな呟きだったが、ウサギ特有の聴覚でロップイヤーの長い耳を
ぴくぴくと動かして「そうだよ」と、不遜に黒ウサギは言った。


「ウサギを見たら追いかけるものだろう?」


「ほら、早く追いかけなよ」と、黒ウサギは相変わらず不遜な態度を崩さない。
確かに追いかけるというのは物語によくあると思うが、
あくまで追いかけるのは白いウサギだった筈だ。
それに、追うにしても、人が違う。
ウサギを追いかけるのは青いエプロンドレスが良く似合う女の子。

私では無い。


たとえば―――、



「追いかけるのなら、白ウサギだわ」


それに、追い掛けるのは、青いエプロンドレスの女の子。
視界を掠めた姉さんの姿を振り払って、そう言葉にすると黒ウサギはヒクヒクと鼻を動かした。
そして、ムッとした様に赤い瞳に掛けられたモノクルの位置を直す。


「何?君はあんな醜い白ウサギなんかを追いかけたいの?」


「私では不服だ、と?」と、少し声のトーンが下がったような気がした。
愛らしい容姿なのに、睨まれるとそれなりに迫力がある。
別にそういうつもりで言ったわけではない。
あくまで普通は白ウサギを追いかけるものだ、と、言いたかっただけ。


「・・・違うわ。貴方が不服なのではなくて、少女が追いかけるのは白ウサギだってこと」


役がそもそも違う。
そして、私もまたウサギを追いかける少女の役には当て嵌まらない。
黒ウサギにそう伝えれば彼はまたフンッと鼻を鳴らした。


「たしかに、どう贔屓目に見ようとしても、君は物語の主人公にはなれないね」


・・・喧嘩を売られているのかしら。

まるで小馬鹿にするように言い切った黒ウサギに少なからず腹は立つが、否定はしない。
否、出来ないというのが正しい。
だって、確かに私は主人公なんて華やかな役は似合わない。
アリスやロリーナ姉さんに比べて、同じ血を引いている割には貧層だもの。


「・・・分かったなら早くどこかに行ってよ。貴方を追いかけてくれる少女でも探して来たら?」

白ウサギでは無くても、追い掛けてくれる少女がどこかに居るかも知れない。
口を開けば可愛げのない言葉ばかりを発する黒ウサギにそう言って顔を背けた。

私では役者不足だ。

だって、私はもう此処で消えるつもりだから。
どちらにしても、黒ウサギを追いかけることは出来ない。
それに少し本音を混ぜるなら、こんな可愛げのない黒ウサギを追い掛けたくない。


「・・・だから、黒ウサギを追いかける少女は君だと言っているんだ。君、馬鹿なの?」


終わるまでのカウントダウンだとは分かっているけれど、
カウントダウンがゼロになる前にこの可愛げのないウサギを一度は殴りたい。
蔑む様な眼差しを向けるその容姿はこねくり回したい位に可愛いのに、性格がまるで可愛くない。

が、不意に黒ウサギの言葉の一部分に鎌首をもたげる。
どうして、このウサギはこんなにも私が追い掛けることに固着するのだろう。
見た目だけなら愛らしい上に珍しい黒ウサギだ。
どこに行っても、追い掛ける少女は現われるように思う。

それなのに、どうして。


「普通の少女は黒ウサギなんて追い掛けない。
普通じゃない君だから、黒ウサギを追い掛けるんだよ」


それとなく貶されている気がするのは、おそらく気のせいではないと思う。
だが、その言葉に一瞬、惹き付けられた。


(だって、どうして・・・)


そんな言い方をするのはずるい。
だって、その言い方だとまるで、私しか黒ウサギを追い掛けられないみたいじゃない。
私だけ、なんて、そんな言葉。

まるで誘惑だ。

「さあ」と、小さな手を差し出されて困惑する。


『イーディス』


私を呼ぶ誰かの声が脳裏を掠める。

そして、私に手を差し出す黒ウサギと、誰かが重なるような気がした。
差し出されたてを掴みたい衝動と、その手に漠然とした恐怖感を覚える心。
二つの感情の狭間で揺れて、黒ウサギの手をなかなか掴めない。



「・・・・・」


不意に溜息を漏らして、黒ウサギはその手を引いた。
それを見送って一瞬、惜しく感じる。
いつまで経っても選べない私にうんざりしてしまったのだろう。
そして、黒ウサギもまた私から離れていく。



「え!?」


浮遊感。
抱き上げられる感覚に一瞬、目を疑った。
先程まで、下から聞こえていた、たどたどしい声から一変して、上から声が聞こえる。

「君は亀だね」と、呆れた声。
「いや、亀の方が回転は早いかも知れない」と、憎まれ口は欠かさない。

おそるおそる顔を上げると、私を抱き上げているその人と、目が合った。
黒いウサギ・・・耳を付けた、赤と藍のオッドアイ。
赤い瞳の側にはモノクル。
先程まで、言葉を交わしていた黒ウサギとおそろしい程に特徴が合致する。
まさか、と、思った。


「私を追い掛けるのは君だと言っているんだ。こういえば理解出来る?」


「まあ、もう追い掛けてはいないけど」と、呟く声に愕然とする。
が、即座に我に返った。このままウサギ耳の男に拉致されるなんて御免だ。
抵抗しようと試みるが、身体はひょろひょろとしている癖に案外力が強い。
それでも、年頃の女に本気で抵抗されたら手古摺るもの。
黒ウサギは煩わしそうに眉を顰めた。


「離してよ!」


これなら抜け出せるかも知れないと、淡い期待を募らせる。
だが、次の瞬間に苦々しい顔で呟いた黒ウサギの言葉に思わず抵抗する力が抜けた。


「・・・私が異端だから?」


正気の沙汰じゃない。
だけど、その声が一瞬、泣いているように聞こえた気がして、耳を疑った。
違う、と、首を横に振ろうとした。
が、黒ウサギが哀愁を漂わせたのは、その一瞬だけだった。
「関係無い」と、黒ウサギは冷淡に言い放った。

そして、私の返事も待たずに走り出す。
金縛りが解けたように再度、抵抗を試みたが、もう黒ウサギの手が緩むことは無かった。
色を失った世界の中で、黒ウサギの赤い瞳だけが鮮明に映る。


(待って・・・私は、)


此処を離れたくない。
姉さん達と過ごした大切な場所だから。
だからいっそ、終わらない夢を見るのなら此処が良い。

言葉にならない。

大きな穴に向かって走る黒ウサギを止める言葉が出て来ない。
私は此処に居たいの。


此処に―――居たいのよ。