プロローグ



 キラキラ光っているのは誰のゆめ――?

 どうせ、最後は目覚めて終わりなのに、それでも輝きは止まない。



イーディス=リデルは自宅の庭先に居た。
そこはかつて、彼女が大切だと感じていた思い出深い場所である。
が、同時に今は疎ましく思える場所。
此処にはもう何も無い。
忘れ得ぬ甘美な記憶だけが心に残るのみ。


「     」

口を開くが言葉は音にならない。
脳裏を掠めたものを振り払うように、イーディスは緩々と首を横に振った。
誰よりもこの場所を、ここで過ごす時間を愛していた姉はまだ帰って来ない。


イーディス=リデルには二人の姉が居た。
歳の離れた長女ロリーナと、あまり歳の変わらない次女アリス。
二人は、身内贔屓を抜きにしたとしても優れた女性だった。
完璧とは言わないが、それでもイーディスから見れば十分過ぎる程に淑女と呼ぶに相応しかった。

少なくとも、そんな彼女等に対してコンプレックスを抱いていたことは否定しない。
が、勘違いしないで貰いたいのは、イーディスはアリスとロリーナを嫌っていたわけではない。
むしろ、大好きだった。が、思春期を迎えた複雑な年頃でそれを素直に打ち明ける事は難しい。
衝突を避けることは出来なかった。

特に歳の近かったアリスとは衝突を幾度も繰り返していた。
アリスが、そんな自分よりもロリーナと親しいのは当然の事だろう。
それに、長姉は早くに母を亡くした姉妹の母親代わりも努めていた。
実家暮らしのアリスにとって安心出来る女性だったのは言うまでも無い。

実家で家事をこなすロリーナと、
寄宿制の学校には通わず公立校に通っていたアリスを羨ましく思っていたことは否定しない。
       
だって、会いたい時に会えるのだから。
自分もそうすれば良いだけの話なのかも知れないが、出来なかった。
父も姉妹達もそれを望んでいなかったから。
アリスが公立校に進学を決めた時も、父は随分と反対の意を示していた。
それを宥めたのが、ロリーナだった。

それを目の当たりにして、自分もそうしたいなんて我儘が言える筈がない。
きっと、望めばロリーナはイーディスに協力してくれただろう。
だけども、ロリーナは多忙な人だ。家族との時間を優先して、自身を犠牲にする人。


イーディスの中でロリーナ=リデルとはそういうひとだった。

とても聡明な女性で、惹かれる人も数多に居ただろう。
だけど、ロリーナは自分のことよりも、家族を何より大切にして優先した。
気になる人は居たみたいだけれど。
いつか、その相手と結ばれたら良いなと、こっそり心の中で思っていた。
そうすれば、無理をする必要が無くなるから。


――姉さんたちが大好きだった。


 ロリーナも、アリスのことも。

だからこそ、自分を犠牲にしないで、ちゃんと自分の幸せと向き合って欲しかった。
アリスは狭い世界で生きているから、少し考え方が子供っぽい節がある。
たぶん、ロリーナはそのことにも気付いていて、
いつか、アリス自身がそれに気付く事を願っていたのだと思う。
だけど、アリスは甘ったれの部分があるから、きっと気付いてない。
特に急いで気付く必要性も無かったから。


(そう。無かった・・・のよね。)


億劫な気分に陥る。


少し前までは、急ぐ必要なんてないと思っていた。
だけど、時間とは残酷なもので、何の前触れも無く日常を崩してしまう。

その日は晴天で、
昼休みは屋上でランチにしようと心に決めながら、眠気を誘う歴史の授業に耳を傾けていた。

そんなイーディスの元に一通の手紙が届いた。
否、正しくは手紙を片手に用務員がその報せを届けに来たのだ。


『イーディス=リデルさん、急いで帰ってください』

その報せを受けた時、一瞬、思考が止まってわけが分からなくなった。
イーディスには二人の姉が居た。


(姉さん?それとも・・・・・?)

否、どちらでも関係無い。
答えを出す間もなく、部屋に戻って最低限の荷物を片手に馬車に飛び乗った。
揺られながらずっと、その問答が繰り返される。
姉が危篤状態だ、なんて、認められる筈がない。
どっちだって良いから、頼むから、夢であって欲しい。
祈る様な想いで実家までの道のりを揺られた。


そして、実家に着いた頃には、既にロリーナは二度と目覚めぬ人となり果てていた。
呆然とする父親と、アリスの姿。
重苦しく広がる静寂の中で、悲しみよりも先に込み上げて来たのは怒りだった。



「・・・どうして」


呟いた一言が、静寂に水を差して波紋を描く。
父親やアリスに対する怒りでは無い。
否、八つ当たりの感情も少なからずあったが、
それ以上に、何も知らずに居た自身の愚かさに苛立ちが止まない。

何も知らなかった。
ロリーナの病のことも、その瞬間が訪れるまで何一つとして知らされて無かった。
それが悔しかった。
それが周囲からの配慮だと薄々とは感付いたが、それ以上に、遣る瀬無い思いが湧いた。

自分だって家族の一員の筈なのに、どうして、と。
一緒に暮らしていなかったから?
だから、何も教えてくれなかったのか、と。
そう罵ってやりたい衝動に駆られた。
分かっている。それがどんなに醜い行為であるかは、嫌という程、理解している。
だけど、どうしようもない。


「どうして、教えてくれなかったの?」


紡いだ声は掠れて、僅かに涙声が入り混じる。
何も知らなかった。知らずに、のうのうと過ごしていた自分が許せない。
本当に許せないのは、
誰も教えてくれなかった事でも、隠し続けようとしたロリーナに対してでも無い。
気付こうともせず、今もこうして恨み言を吐くしか出来ない無力な自身だ。



「・・・すまない」


イーディスの言葉に父親は僅かに肩を揺らしてそう呟いた。
部屋を出て行く父親の背中にはまるで覇気を感じられなかった。
部屋に残されたのはイーディスと、目覚める事の無いロリーナを見つめるアリス。


アリスは泣いていなかった。
ただ、茫然と安らかな顔で眠るその人を見つめていた。
一度は静まりかけた激情がまた、蘇る。
どうして、この人は泣かないのだろう、と。
単純に、そう思った。
あれだけ傍に居た人の死を目の当たりにして、何故。

分かっている。

悲しみの表現の術は人それぞれだと言うことくらい、知っている。

だけどね、アリス。

彼女は誰よりもそれを許されていたのに。
それなのに、どうして泣こうとしないのだろう。

理解できなかった。

きっと、これから先も理解する事は出来ないと思う。


『姉さんは冷たいわ』


悲しみを表に出そうとしないアリスに、イーディスはその言葉を投げ掛けていた。
この言葉に激昂してくれたなら、まだ良かった。
否、いっそして欲しかった。
怒りから溢れる涙でも構わない。
アリスは泣くべきだと思った。
そして、ロリーナの死を受け入れるべきなのだ、と。
だけど、アリスは声を荒げることもせず、肩を竦めて如何とも形容し難い笑みを浮かべて言った。


「そうね」


と、肯定する声。沸々と沸き上がったこれは怒りだ。
ロリーナの前で、亡き人の御前でこれ以上は言葉にするべきではない。
だけど込み上がる怒りを押し殺す術をイーディスはまだ知らない。


「っ・・・冷たいわよ」


捨て台詞のようにそう吐き捨てた瞬間、堪え切れなくなった涙が視界を歪ませる。
見られたく無くて、大股で踵を返した。
フラフラとした足取りで辿り着いたのは、庭だった。
幼い頃は、よく三人で、この場所で遊んだ。
イーディスにとって大好きな場所だった。
が、いつしか三人で過ごす時間が減った。
寄宿学校に通い始めたこともだけれど、アリスと衝突し始めてからだ。
家族とずっと一緒というのがむず痒くて、
干渉されることが疎ましくて、気付けば自ら距離を置いていたのだ。


―――ずっと、知っていたのに。




「・・・」


がくりと膝が折れて、その場に蹲った。
もう随分と薄れたと思っていたのに、一度席を切ると嗚咽が止まない。

時間は永遠では無い。

だからこそ、刹那でしかないそれを、
大切にしなければいけないと、ずっと、分かっていたのに。
だけど結局、何一つとして理解していなかった。

あれから暫らくして、アリスが居なくなった。
父親は今もずっと探している。
たった一つの欠片が失われただけで、
イーディス=リデルの大切にしていたものは、全て壊れてしまった。

時間は戻って来ない。

そんなことは嫌という程に分かっていた筈だ。

だが、願わずには居られない。
薄れさせないで欲しい、と。
時の流れは残酷なもので、過去を風化させてしまう。

あの愛おしい日々を忘れたくない。

忘れたくないのだ。


だから――・・・・・


全ての景色が色を失った。
そして、静止する。
音も、色も存在しない世界の中で、イーディスは一人、空を仰いだ。
まるで世界に一人だけ取り残された感覚。

もし、このまま世界が止まったままだとしたら、その狭間に居る自分はどうなるのだろう。
消えてしまうのだろうか。


(・・・それも良いかも知れない)


割と本気で、そんな事を考える。
だって、ここにはもう、何一つとして欲しいものは残っていない。
全て、砕け散ってしまった。
砕け散ったものを拾い集めようとしたことはあった。

が、それももう、疲れてしまった。
だって、終わりが訪れない。
失くしたものをいくら補おうとしてみたところで、所詮は雁物に過ぎない。


無意味。

代用品にすらなれない、無駄物。



「・・・役立たずのイーディス」


掠れた声でそう呟いた。

僅かに口元に笑みが浮かんだ。
自虐的なその言葉が慰めになるなんて。
色を失った空を見上げることが億劫で、腕で目元を覆った。
視界が閉ざされて黒色に染まる。

この色が愛おしい。
何者にも侵されず、全てを染め上げるこの色が堪らなく感じるのだ。
このまま終わってしまいたい、と、そう願った。

世界はとっくの昔に失われているのだから。
今更、崩れ落ちたところで変わらない。
夢の残骸に溺れて生きるよりもいっそ、
今、この色に抱かれたまま終わってしまう方が、余程、救われる様な気がした。